サニーデイ・サービス丸山晴茂さん。

7月15日日曜日の朝、というか正午前、事務所からメールを頂き、サニーデイ・サービスのドラマーである丸山晴茂さんが亡くなった事を知った。


一斉メールでもあったし、どう返信して良いかもわからず、取り急ぎサニーデイ・サービスをデビュー時から取材されていたライター兵庫慎司さんに連絡を取る。


まぁ、それくらいしか出来なくて、家でサニーデイ・サービスを聴きながら、何か追悼文をTwitterで書こうかと想ったところで、ありきたりな文章しか出てこず、中途半端なRIP的な野次馬文章になるなら何も書かない方が良いと想った。


でも、サニーデイ・サービスは間違いなく90年代の青春のバンドである。各アルバム各楽曲に色々な想い出がある。何か書かなければと悩みながら、結局日付変わる手前くらいに『夏は行ってしまった』のYouTube動画と共に『御冥福をお祈りします』的な短い言葉をTwitterでつぶやいた。


翌日、兵庫さんがブログに追悼文を書かれていて、連絡があり、『あなたも書きなさい』と言われた。普段、何かしら命令口調で言われると必ず反発する私だが、今回ばかりは本当に何か書かないといけないと想った。


まぁ、ぶっちゃけデビュー時代から取材している人の追悼文を超えるものはないし、それこそライターを代表して、追悼文ひとつでも良いんじゃないかなとも想う。


ただ兵庫さんより約10歳下の私、つまりサニーデイ・サービスより歳下のライターであり、ファン時代があったライターとしては誰も何も書いてないわけで。


なので、自分が書ける事を書こうと。


90年代、いちファンとしてライブを観ていた時、MCでも曽我部さんと田中さんは客席も向かず、ふたり向かい合って楽しそうに話していて、それを後ろから眺める晴茂さんというイメージだった。


98年のアルバム『24時』ではレコーディング中に体調を崩されていた事がライナーノーツに書かれていたし、第一期サニーデイのラストアルバム『LOVE ALBUM』では、もはや晴茂さんはレコーディングにも参加しなかったなんていう話も聴いていた。


寡黙で少し不健康な人で、ドラムもパワー溢れるというより、ローファイというか飄々というか。


2005年頃からだろが、曽我部さんや当時のサニーデイ・サービススタッフだった人たちとお話できる機会が増えた。


今回も曽我部さんがパンクスやロックンローラーと振り返っておられたが、あの見た目、あのプレイからは想像できないのだが、みんなパンクスやロックンローラーという表現を晴茂さんに使う。


アルコールの問題を抱えていた事も曽我部さんは触れていたが、酒を浴びるように呑むなんて、まさしくパンクスでありロックンローラー


改めて書くが、あの見た目、あのプレイで破滅型のパンクスでロックンローラーなんていうギャップに驚く。


個人的に、この人がパンクスであり、ロックンローラーであると認識できたのは、解散後、雑誌『Quick Japan』でライター北沢夏音さんからうけたインタビュー。


曽我部さんから解散を言い出されたシチュエーションを最悪で頭にきたと言い切り、曽我部さんの我儘には付き合いたくなかったが、解散は単純に悔しくて、チキショー!と語った。


再結成への想いも聴かれ、『サービスでしかない』と吐き捨てる。


この人、むちゃくちゃかっこいいなって痺れたのを覚えてる。


その後、サニーデイ・サービスは2008年に復活して、もちろんライブも観に行ってるし、楽屋挨拶も行ったはずだ。


でも、曽我部さん田中さんと挨拶がてら話す事はあっても、晴茂さんとは会釈をするタイミングすらなかった。


いつか必ずインタビューで、第一期サニーデイ・サービス時代、解散の時の想い、で、『サービスでしかない』と吐き捨てながら、何故再結成に至ったかを、晴茂さんに聴きたかった。


2016年に長引く体調不良から、サニーデイ・サービスの活動から離れた晴茂さん。


離れる直前の晴茂さんの体調不良な様子も少し知っていたので致し方はないと想いつつ、ずっとサニーデイ・サービス=3人という認識があった為、寂しさは否めなかった。


サポートドラマーの素晴らしいパワードラムを観る度に、あの晴茂さんのローファイというか飄々としたドラムというふりが効いていたから、より際立ったのかも知れない、今から想うと。


結果、何が書けたのか全くわからないが、書く事によって、晴茂さんを振り返る事は出来たような気がする。


とにかく、晴茂さん本当に47年お疲れ様でした。


心から御冥福をお祈りします。